北朝鮮による日本人拉致事件の背景

 

1 北朝鮮
 第2次世界大戦が終結し、朝鮮半島は連合軍が一時的に統治することとなった。北半分をソビエト社会主義共和国連邦(現:ロシア共和国)が、南半分をアメリカ合衆国と大英帝国の連合軍が、という形でである。
後に共産主義と自由主義の対立が明確になると、米ソはそれぞれの支配地域で、それぞれの体制を柱とする政権を樹立させる。米英支配地域に成立した大韓民国とそして、ソビエト支配地域に成立した北朝鮮民主主義人民共和国、そう、北朝鮮である。

2 朝鮮戦争
 南北それぞれに政治体制が固まると、占領軍は引き上げ始める。一部駐留軍を除き、韓国軍、朝鮮軍のみがそれぞれの軍事勢力として存在するようになった頃、一つの動きが半島を飲み込んだ。
北朝鮮の国家主席に就任した金日成は、「米帝傀儡政権からの同胞の解放」の名の下に、南進を開始した。時に1950年6月25日、朝鮮戦争の勃発である。

3 北朝鮮の読み違え
 朝鮮戦争開始にあたって北朝鮮当局は、2つの読みちがえをしていた。一つは大韓民国国民の反応、もう一つはアメリカ合衆国の反応である。
戦争当初、北朝鮮は大韓民国国民に付いて、北朝鮮の動きに呼応して民族統一を叫び決起してくれるだろうという読みだった。ところが彼らは反対方向に決起した、つまり北朝鮮の南進を許さず、逆に大韓民国を北へ向かって押し上げ、自由主義体制の旗の下、祖国を統一しようと言うのである。
それ以上の誤算はアメリカ合衆国だった。既に占領軍が去り、極東に残された軍事力が少ないことから、まさかアメリカ合衆国が本格的に参戦して来ることはないと考えていたのである。アメリカ合衆国のメッセージははっきりしていた。たった一言「これ以上共産主義国家が拡大することは許さない」だった。

4 38度線を越える方法
 約3年にわたった朝鮮戦争が休戦という形で落ち着いた時、同じ民族が隣同士に住む、距離的に最も近くて、政治的に最も遠い国が、38度線を挟んでにらみ合う毎日が始まった。北朝鮮は南半分の「解放」を諦めた訳ではなかったが、直接の往来は不可能となってしまった。工作員を送りこむ手段が無いのである。事実、1970年代頃まで、北朝鮮による工作はことごとく失敗しており、工作担当の実権を握った金正日は考えた、何かいい方法は無いか・・・。そうだ、韓国と友好関係にある第3国経由で工作員を潜入させられるんじゃないだろうか。そうして目をつけたのが、この日本という国である。日韓の間は比較的自由に往来が出来る。しかも同じ北東アジア人同士、外見上はまず解らない。ならば、日本に密入国し、日本人になりすまして韓国に潜入することで、工作員を送りこめるじゃないかと・・・。こうして「日本人拉致計画」が始まった。

5 すり変るための拉致
 北朝鮮は、工作員を送りこむため、ありとあらゆる手段を使って対象となる日本人を探した。対象者は身寄りが無いこと、すぐに使える技術(手に職がある)こと、そして何より北朝鮮側の工作員と良く似た顔形、年格好の人物であること等だった。こうして行われた拉致事件で最も有名なのが、先ごろ韓国で釈放された辛光洙(シン・ガンス)による原敕晁さん拉致事件である。辛は原さんを拉致、原さんになりすまし韓国に潜入、スパイ活動を行っていた。

6 教育のための拉致
 北朝鮮は、潜入工作員を教育するためにも、現地人教官として必要な人材を確保するべく拉致を繰り返した。一昨年来日したこともある元北朝鮮工作機関員の安明進(アン・ミョンジン)氏は、金正日軍事政治大学で横田めぐみさんや一川修一さんから日本のことを習ったと証言、他にも日本人教官として合計11人もの人から教育を受け、あるいは目撃したと語っている。

7 教育の効果
 教育の成果のほどを図る、最も有名な事件がある。1987年11月29日に発生した大韓航空機爆破事件である。実行犯は「蜂谷真一」こと金勝一(キム・スンイル)と「蜂谷真由美」こと金賢姫(キム・ヒョンヒ)の二人。二人は日本のパスポートを持ち、日本人を名乗り、日本人として行動していた。金勝一は自殺、金賢姫は事件発覚直後に逮捕され、全てを自白しているが、その中で自分の日本人教官が李恩恵(リ・ウンヘ)こと埼玉県出身のTさんであると証言している。
当時韓国はソウルオリンピック直前の状態にあり、北朝鮮としては、それをなんとでも阻止したかったのである。この事件で最も重要なのは、犯人二人が日本のパスポートを保有していた事である。もし二人ともが自殺してしまっていれば、実際には日本人ではない、謎の東洋人の遺体が二つと日本国の偽造パスポートが二つ残っただけで、「おそらくは北朝鮮当局の犯行に違いない」と言う憶測を残し、「ソウルオリンピックを歓迎する国は、同じ目に遭う」というメッセージと、そして恐怖感だけを残して、事件は全て闇に沈んでいたことだろう。そしてそれこそが、北朝鮮当局の狙いだったのだ。こういった「日本人のようで日本人ではない」謎の東洋人を育成するため、教官要員として多数の日本人が拉致されたということになる。

8 公安当局の不可解な行動
 昭和52〜53年頃、警察が日本海側海岸線沿いの民家を借り上げて、無線傍受などの警備を強化したことが分かっている。この時期は拉致事件が頻発した時期と重なる。これらのことから、地元警察はともかく、公安当局の上層部では、北朝鮮による拉致であったことは、かなり早い時点から分かっていたものと推定される。しかし、政府が認めるのは昭和63年の国会答弁が初めてである。報道は昭和55年の産経新聞が最初だが、外国機関による我が国国民の組織的拉致という大事件が表に出てこなかったことは、中央で何らかの力が加わったのではないかという疑義がもたれている。

9 日本政府の見解
 日本では、安氏による横田めぐみさん拉致の情報を元に、自由党西村眞悟代議士が衆議院に質問状を提出、橋本政権(当時)は現在調査中と回答、後に7件10人の拉致を北朝鮮当局の犯行と断定したと発表した。
一連の日朝国交正常化交渉の過程で拉致問題が出された時、北朝鮮側はあくまでも「拉致」を認めず、「赤十字を通じて行方不明者として調査する」と回答している。しかし北朝鮮赤十字の回答は、予想されたとおりに「北朝鮮国内に、日本側の言うような行方不明者は存在しない」というものだった。

10 コメ支援と拉致問題
 その後自由民主党は、停滞する対北朝鮮交渉に突破口を見出すべく、10万トンのコメ支援を決定した。しかし考えてみて欲しい。これまで2度にわたる食糧援助、資金援助に対する北朝鮮の回答はどうだったか?果たして誠意は見せたのだろうか?今回に限り「北朝鮮側の誠意ある回答(外務省高官筋)」が得られる補償は何処にあるのだろうか?
当時の外務大臣河野洋平は、「今回のコメ支援に対して北朝鮮側が誠意ある回答を示さない場合、日本側としてもこれまでと対応を変更させる用意がある」と言っているが、本当に断固たる態度に出る準備ができていたのだろうか?
「日朝友好議員連盟」を結成し、「人道援助と拉致問題は別(自民党首脳筋)」等と発言するのを見れば、当時の河野外相の発言が空々しく感じられる。
「ただ取り」「やらずぶったくり」をさせない覚悟が本当にあったのか?国民に対する納得の行く説明がなされない限り、誰一人として信ずるものはいないのである。

 

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